お大師様のご誓願

 「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん。」

 「虚空が尽きるまで、迷える衆生が尽きるまで、さとり(衆生を救う行)の尽きるまで、永遠に仏に祈りつづけたい。空、衆生、さとりが尽きれば、わたくしの願いも尽きるであろう。」

 

弘法大師空海の一生

 弘法大師は宝亀五年 (七七四)年六月十五日、讃岐の国の屏風ケ浦に生まれました。幼名を真魚 (まお)と言われました。

   父の名を佐伯直田公 (あたいたぎみ)と言い、佐伯氏はこの地を治めた豪族でした。母親の玉依 (たまより)は阿刀氏の出であり、叔父の阿刀大足は桓武天皇の皇子伊予親王の儒学の侍講(師)でした。  

 お大師さんは佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていました。

 

若き日の大師の苦悩と決意

 弘法大師は十八歳のときに、大学の明経科の試験に合格して大学博士岡田牛養に春秋左氏伝等を、直講味酒浄成に五経等を学んだのです。明経科は正統儒教を教える学科でした。  しかし、大学は若い大師を満足させませんでした。 
   
 高級官吏としての立身出世を望んだ一門の人々の期待にそむき、大師の心は仏教に傾きます。
 しかも、官寺の僧としての学問を望まず、人里を離れた山林に修行する道にひかれたのです。
その時の、弘法大師の苦悩と決意が『三教指帰』に書かれています。

  「夫れ父母覆育提挈すること慇懃なり。その功を顧みれば、高きこと五岳に竝び、其の恩を思へば、深きこと四涜に過ぎたり。」

  (大切に私を養育してくれた父母の苦労は五山のように高く、そのご恩は江・河・淮・済の四河よりも深いのです。骨身に刻みつけております。どうして忘れることができましょう。)  しかし、両親への恩、国王への恩よりも、ひろく人びとに慈愛を及ぼす大きな孝行があると大師は考え、ついに仏道修行の道を選ばれました。

  「世間の父母は但一期の肉親を育ふ。国王の恩徳は凡身を助く。若し能く生死の苦を断じ、涅槃の楽を興ふるは三宝の徳。」
  「僕聞く、『小孝は力を用い、大孝は匱しからず』と。」   (『小さい孝行は体を使ってするが、大きな孝行はひろく人びとに慈愛を及ぼし、不足のないようにすることである』と聞いている。)

 

 

山林に修行する 

  
虚空蔵求聞持法とは 

 

 
 弘法大師は大学を中途退学し、最高の覚りを求め仏道修行をはじめました。
 『三教指帰』には、吉野金峯山や四国の石鎚山にのぼって苦行したことを述べています。

  「或るときは金巌(金峯山つまり吉野の修験道の山々)に登って雪  に遇うて困窮した。或るときは石峯(石鎚山)に跨つて糧を断つて轗軻(死ぬ程の苦の目に合うた。・・・霜を払つて蔬を食ふ、遥かに子思の行に同じ。雪を掃うて肱を枕とす。還つて孔(孔子)の誡に等し。青空は天に張つて房屋を労せず。白雲は、嶽に懸つて幃帳を営まず。・・・」

  弘法大師は大学を中途退学し、大自然の懐で修行をはじめました。そのきっかけは、一人の沙門から虚空蔵聞持法を伝授されたことでした。
 「時に一沙門有り。虚空蔵求聞持法を呈示す。其の経に説く。若し人法に依りて此真言一百萬遍を読めば、即ち一切経法の文義の暗記を得ん。是に於て大聖の誠言を信じ、飛焔を鑽燧に望み、阿波國大瀧之獄にはんせいし、土佐國室戸之崎に勤念す。幽谷は聲に応じ、明星は影を来す。」    

 

 山中に篭もり、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ)を百万遍唱えれば一切の経典の意味が心の中にはいり、その智恵を得ることができる。という教えを聞き、大師は太龍の岳や室戸岬に篭もりました。
 「大聖仏陀の神聖な言を信じ、木鑽によって火をおこす時のように休まずに努力し、阿波国の太龍寺(徳島県阿南市加茂町丹生谷)の山にのぼり、土佐の室戸崎(高知県安芸郡室戸崎)に修禅した。幽谷は私の声に応じて響き、明星は空に出現した。」  太龍の岳は四国の深い山の中にあります。捨心岳からは淡路島本州を望める高台であり、室戸岬は太平洋の怒涛の激しい絶勝の地です。  

 弘法大師は山岳で苦行練行する近士(ウバソク)として虚空蔵求聞持法を行い、自然の中に宇宙の生命と交流し、大日如来と入我我入し、仏教の真髄を極めようとしたのでした。  遺告諸弟子等にいう。「近士(ウバソク)と成って名を無空とす。名山絶之処、嵯峨孤岸の原、遠然として独り向ひ、淹留苦行す。或ひは阿波の大瀧嶽に上って修行し、或ひは土佐戸門崎に於て寂暫す。心に観ずるときは明星口に入り、虚空蔵の光明照し来て菩薩の威を現わし、仏法の無二を現ず。厥の苦節は則ち厳冬の深雪には藤衣を被て精進の道をし、炎夏の極熱には穀を断絶して朝暮に懺悔すること二十の年に及べり。」

 その後大師は、奈良の諸寺院で仏教研鑽を積まれました。父方の佐伯氏の氏寺である佐伯院が東大寺内にあったので、そこで学ばれたのでした。
 大師が入唐し帰朝後に朝廷に提出した請来目録に見える経論は新渡来書ばかりでした。それ以前に日本に伝わっていたものを含まないことから、大師が当時日本にあった仏教典籍を知悉していたことがわかります。  

 

 

 

入唐求法の志 

 弘法大師は三十歳の時に大和の久米寺の東塔の下に大日経を発見されました。そして、真言独特の象徴や梵字などの意味を知ろうと、遂に入唐求法の志をおこしたのです。
(弘法大師遊方記による)

 「吾仏法に従って常に要を求め、尋ねるに三乗五乗十二部経、心に疑いが残り、決をなさず。唯願わくば三世十法の諸仏、我に不二を示せと一心に祈れば、夢に人有り。告げて曰く。ここに経有り。名字は大毘盧遮那経これ即ち求む所。・・・大和の国高市郡久米寺の東塔の下に有り。」

そこでまず弘法大師は、東大寺戒壇院において元興寺僧泰信について具足戒をうけたのです。(延暦二十三年四月)

 

 そして、延暦二十三年(八〇四)大師は朝廷から入唐留学を命じられ、中国の唐の都への遣唐船の第一船に乗船しました。
大師と同行した人に橘逸勢、最澄(後の伝教大師)がありました。出帆した四船は、暴風雨に会い、第三船と第四船が行方不明となり、大師の乗った第一船ははるか南に押し流されて福州についたのです。そして苦難の末、唐の都に辿り着きました。

その時、弘法大師空海は三十一歳無名の僧でした。

 

 

 
 唐の青龍寺で弘法大師は、恵果和尚に遭われました。
 不思議なことに、恵果和尚にお目にかかった時、恵果和尚は笑って
「我先より汝の来るを知り相待つこと久し
(私はおまえが来ることをずっと前から知っていた。なんと遅かったことか)」
と言われ、西明寺の志明、談勝ら五、六人と共にいた弘法大師一人を指して、まるで以前からの知り合いのように語りかけられたといいます。

 弘法大師は、六月に恵果和尚を師として胎蔵曼茶羅壇に入り、曼茶羅の上で投花すると、花は中台大日如来に附著しました。七月上旬金剛界曼茶羅壇に入り花を投げると再び大日如来の上におちたので、和尚は驚歎されたほどでした。

 両部の大法を授けられたのは中国の義明と日本の空海沙門だけでした。

 恵果和尚は八月に伝法阿闍梨位の灌頂を授け、その後に、宮廷画家李真ら十余人を召して胎蔵金剛両部曼茶羅など十鋪を描かせ、また写経生二十余人をして大日経、金剛頂経等の密経経典論疏等を書写させ、鋳金博士趙呉を呼んで新たに法具十五点を造らせたのです。

 早く、日本へ帰り密教を広めるように和上より大師は勧められます。
「如今此土の縁盡きぬ。久しく住すること能はず。宜しく此の両部大曼茶羅、一百餘部の金剛乗法、及び三蔵轉付之物竝に供養の具等、請ふ本郷に帰りて海内に流伝すべし。纔に汝の来れるを見て命の足らざるを恐る。今則ち授法在る有り。経像の功畢んぬ。 早く郷國に帰て以て國家に奉じ天下に流布して蒼生(人民)の福を増せ。然らば則ち四海泰く萬人楽まん。是則ち仏恩に報じ帰徳に報ず。國の為には忠也。家に於ては孝也。義明供奉は此処にて伝へよ。海は其れ行け矣。之を東國に伝へよ。」と。
 大師は中国に留学した主な目的はほぼ達し、最初の予定を変更して早く帰れという師の指示に順って、早く帰国することになりました。

大師は密教経論の読誦と写経に寝食を忘れて努め、密教法具、曼茶羅図像を集められました。

 古来日本からの入唐留学生は多かったが、インドの阿闍梨に教をうけたのは大師だけである。大師はサンスクリット語および悉曇書についても教えられたのです・

 大師は帰朝してすぐ京都に行かずに筑紫や、和泉で滞在し翌年朝廷に召されて入京されましした。

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